変わらぬ鼓動

たまに重なり合うような僕ら

誰がための祭りか〜「祭 GALA」 感想〜

2024年4月6日 祭 GALA 夜公演、縁あって行ってきました。

超楽しかった〜!!!!!!!!!!

自分の思い出も兼ねて、ブログを書いておきます。

 

※本ブログでは、祭 GALAの内容にガッツリ触れています。ネタバレが嫌な方は即刻、ブラウザバックください。

※また、このブログには個人の解釈が多く含まれます。

 

てか4月6日に見に行ったのにもう千秋楽ですね。本当にごめんなさい。もう少し早く出す予定だったんですけどね…。F**K IN 仕事。

 

kotobank.jp

 

Gala

意味:歓楽、お祭り騒ぎの、祝祭

 

そもそも、なぜ、「Gala」なのか。祭のニュアンスとしては、広く使われている「Festival」とは、何が違うのか。

 

GALAは、鳥居の映像から始まり、鳥居の映像に終わる。

いわば、舞台の中は神社、神殿と言ってもいいだろう。すなわち、新橋演舞場に集まった観客は、神々の集まり、遊びに巻き込まれた。神隠しにあったとも言えるのではないだろうか。

オープニングでは、3人が人ならざるものの姿で登場する。長い髪に雄々しく生えた角。そして、異形としての面。

「祭祀」としての面が強い印象を、かなり感じる。

 

オープニングを終えた二曲目、Dance Floor。和服の衣装を脱ぐと背中に「ヒ」「タ」「リ」と書かれたジャケットを纏った3人が現れる。コシノジュンコの衣装である。これがまたビタビタに採寸が合っているので、3人のスタイルの良さを引き立てている。

その姿は往年のショーを感じさせるようである。少年隊、PLAYZONE、ジャジーな音楽とダンスが、やはり彼らのルーツにはある。

あとこの場面で「岩本さんがファンサマシーン」と呼ばれる理由がわかった。振り付けとファンサービスがシームレスなのである。ウインクも指差しも、ファンサービスなのか振り付けの一つなのかわからない。だからこそ澱みなく、スムーズに、たくさん盛り込むことができるのだと感じた。

 

続いては3人のソロ曲。まずは岩本さんの「新世界」

鳥居を模したような鉄棒にぶら下がって登場する岩本さん。服装は東南アジアあたりの王族を思わせる。背後には曼荼羅のようなタペストリー。周りには笠と数珠を纏ったジュニアの子たち。

歌い踊る岩本さんの姿は、なんとなく、ヒンドゥー教の神シヴァを思い出した。シヴァは創造、再生、破壊の神とされ、ヨガの始祖ともされるらしい。

曲中、ソファに座った岩本さんが歌いながら印を結ぶような仕草をする。目を閉じ、肩の力が抜けている。完全に「解脱」である。シヴァはヨガ、瞑想、芸術の守護神であり、Snow Manが数々の芸術を作ってきた新橋演舞場に降り立つにふさわしい、と言ったところだろうか。

(2024年4月号のWink upにおいて、岩本さんは「最近はヨガやピラティスに興味がある。鍛えるのはもちろん、整えることにも興味が出てきた」と語っている。)

 

続いて深澤さんのソロ「あの日の少年」

岩本さんのソロ曲とは打って変わり、紗幕越しに深澤さんの柔らかな歌声が響く。歌詞がわからない(覚えてない)のが大変に悔やまれるが、こんな一節があった。

「綺麗な弧は描けないけれど」

あの日の少年は、きっと新橋演舞場で歌われることに意味がある。深澤さんは長らく、先代の時代から「女房役」を務めた人である。怒られもしただろうし、とんでもない重圧を背負ったこともあるだろう。そんな少年は、2024年の春、新橋演舞場の0番に帰ってくる。

「あの日の少年」は、新橋演舞場で春を過ごしてきた少年へ向けた曲なのだ。

 

ソロ曲のトリを飾るのは宮舘さん「Moon」。タキシード仮面かと思った。

これまたぴたりと採寸のあったタキシード風の衣装に身を包んで登場した宮舘さん。和風のセットに着物を纏ったバックダンサーの皆さん。

なんとなくではあるが、宮舘さんのソロ曲は「宮舘涼太」のコンセプトを端的に表したものてもはないだろうか。

「セクシー、ロイヤル、美しく」のコンセプトをセットに表したのが「Moon」ではないか。夜を連想させる月、障子を模したようなセットに囚われる姿はセクシーで。採寸のあったタキシードはロイヤルさを想起させ、踊る姿は美しい。そこに宮舘さんが大切にしている「和の美しさ」が加わったものが、Moonだったように思う。

 

Dancing Floor、3人のソロ曲を経て、場面は「三武将」に映る。戦国の三英傑、織田信長豊臣秀吉徳川家康を岩本さん、深澤さん、宮舘さんが殺陣を演じる。

三英傑、言わずとしれた天下人である。天下人として、煩悩を模した亡霊に苛まれながら、それも刀を振り抜く。亡霊は手を変え品を変え、どうにか3人を取り込もうとしているのではないか。驚いたのは、岩本さん演じる織田信長の場面。炎の映像をバックに、得体の知れぬ亡霊と闘っている。

殺陣を終えたところ、信長が左手に首を持って立っている。その首を投げ捨てる。

このシーンでふと思い浮かんだのが、仏陀が悟りを開く前、鬼神(マーラ)や悪魔の誘惑に打ち勝ったという逸話である。亡霊はさながらこの鬼神や悪魔で、それに打ち勝たなければ、天下人にはなれない。内面にある弱さと向き合い、打ち勝つことが、天下人として必要な素質でる。

あの首はもしかすると、内在化した悪魔、内なる弱い自分だったのかもしれない。

 

続いての演目、宮舘さんのフライング「Reincarnation」。すなわち、「輪廻転生」である。

くるくると回る姿はまさしく「輪廻」である。三武将として一生を閉じた3人は生まれ変わり、その輪廻転生の比喩として、宮舘さんは舞うのだ。

 

そして場面は移り、「お化け屋敷」の演目。めちゃくちゃ笑った。宮舘さんがこれでもかと鍛え抜いた「ボケ」の温度感、タイミングが遺憾無く発揮されている。それとは対照的に、ありのまま、素直にボケる岩本さん。深澤さん、ツッコミ手当もらおうね

3人がそれぞれに白装束に天冠を纏い、死者の装いで「Vloom Vloom Vloom」を披露する。その姿はマイケル・ジャクソンの「Thriller」を彷彿とさせる。

マイケル・ジャクソンの故郷アメリカは、長らく土葬の国であった。だからこそ、アメリカでは死者がゾンビとして生き返る。

対し日本は、火葬文化が根付いて長い。白装束に天冠を纏う姿は、葬送の際、一般的に死者に着させられる服装であり、死後の世界に旅立った後のことである。地獄の沙汰を待つ間、とも言えるのかもしれない。

「お化け屋敷」の演目の通り、さまざまな「お化け」が登場する。白装束を纏った演者たちはもちろん、一反木綿、骸骨、ジャック・オ・ランタンもいる。

ここで深澤さんが、滔々とハロウィンの起源について語ろうとする。その姿はかなり胡散臭い(褒め言葉)ので、個人的にはそこも見どころである。深澤さんにも胡散臭い役をください。

ハロウィンとは、キリスト教の祭事であるが、その起源は古代ケルトに遡るとされている。

諸聖人の祝日の前夜(10月31日)の祭り。秋の収穫を祝い悪霊を追い出す古代ケルト人の祭りが起源米国では、ジャック‐オ‐ランタンカボチャ提灯ちょうちん)などを飾り、仮装した子供たちが近所の家々からお菓子をもらう。ハロウィン

さながら「お盆」のようなものである。お化け屋敷といえば夏、お盆。地獄の釜の蓋が開く期間。死者を弔う時期である。

「お化け屋敷」の演目は、死者の弔いである。死者の弔いを祭にしている国もある。メキシコの“Dia de muertos”(死者の日)だ。ここで町中に飾られるものといえば「骸骨」である。

「お化け屋敷」の演目は、死者を弔う祭を象徴しているのかもしれない。

 

場面が変わり、夏祭りの櫓が舞台上に現れる「祭り」の演目。

ここでは観客もダンスレクチャーを受け、一緒に踊る。櫓が立つ祭りで、みんなで踊るといえば「盆踊り」

盆踊りの起源は諸説あるとされるが、文献に登場したのは室町時代、仏教の念仏踊りとされている。初期の盆踊りは、お盆の時期に先祖を供養する行事として発展したとされる。それが夏の風物詩として、現代まで続いている。

これもまた「先祖の供養」すなわち「死者のための弔い」である。

 

滝沢歌舞伎ZEROから続く演目「変面」。面を纏った岩本さんが中央に現れ、変面を披露する。そもそも変面は、中国四川省伝統芸能「川劇」に由来がある

さらに、変面に今年はレーザー演出が加わった。思いのままにレーザーを操っている姿は、まさに王。レーザを武器のように、手駒のように操る。そういえば、面をつけて舞う「川劇」には、蘭陵王という演目があるそうだ。勇猛な戦士でありながら、女性的な面立ちのために敵に舐められることが多かったそうな蘭陵王が、仮面をつけて顔を隠して戦ったという。

変面について – clan

 

エンディング前最後の演目「演舞」。正確な時間はわからないものの、舞台上でノンストップで踊り続ける演者たち。日本舞踊からハンモックフライング、現代的なショーダンスまでが詰め込まれている。

 

そもそも舞、踊りは、神話の時代。天照大神が天の岩屋戸に閉じこもってしまった際、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が神がかりをして踊ったのが起源とされている。

 

舞や踊りは、神に捧げるものであり、祈りの一つの形であった。

 

そしてそれから、さまざまな芸能が生まれ、日本や世界の各所で発展し、人々に親しまれるようになった。生活の一部になったといっても良いだろう。

https://nihonbuyou.or.jp/pages/about_nihonbuyo

 

演舞の序盤に披露される舞は、能からインスパイアされているのであろう。シンプルなセットと囃子方。そして、3人の衣装。

能は、奈良時代から続いた歌舞音曲や、神への奉納としての舞の集大成とされる。

https://www.the-noh.com/jp/sekai/what.html

 

次に宮舘さんが狐の面をつけて舞う。狐は稲荷神の使いとされ、豊穣を司る。全国各地での祭りでも用いられる。

続いて、岩本さんと深澤さんがそれぞれひょっとことおかめの面をつけて舞う。これは舞踊というよりはセリフのないシットコムに近いような印象である。滝沢歌舞伎ZEROの「男と女の舞」を江戸の街中で舞うと、よりコミカルになる、といったような感じであろうか。

 

舞台は大詰め、ハンモックフライング。ネタバレを避けてはいたものの、かなり難易度の高い演目であることはなんとなく察しがついていたが、想像以上だった。命綱なしの状態でかなりの高さまで上がる。その上で、腕一本、足一本でハンモックを滑り降りるのだ。どれだけの精神力と集中力が必要か。

ハラハラはするけれども、彼らの練習に対して「心配」を抱くのは失礼に当たるなと感じたので、ハンモックフライングが終わった時には大きな拍手を送った。彼らのスキルも努力も、舞台上で遺憾無く発揮されていたことだろう。少なくとも、私にはそう見えた。

 

激しい雨の演出の中、まさしく「踊りくるう」演者たち。Snow Man新橋演舞場に「雨」は欠かせないものであるらしい。

今までも「雨」の演出は数多くなされてきた(主に滝沢歌舞伎において)。滝沢歌舞伎における「雨」の役割は、困難、苦難、乗り越えるべき壁のようなもの。

だが、雨は同時に「恵み」でもある。雨が降らなければ作物は育たない。だからこそ古来から人々は豊穣を祈って雨を求めた。

まぁ、恵みの雨どころか大雨ではあるが。

 

 

そしてエンディング「風」

風はひとところに留まらない。常に動く。その風に会えるのは、その一瞬しかない。

 

GALAには演目が様々あるが、最終的な感想は「楽しかった」である。祭祀のあるようなお祭りに行くこともあるが、「祭」という(現代では)非日常的な空間は人々に「楽しい」を与えるものであろう。

天照大神も、楽しそうな様子を見て、天の岩屋戸から出てきたというし、「楽しい」は伝播させてナンボのものである。死者の弔いも神への祈りも、どうせ祈るなら楽しく祈りたいし。

神社における祭祀、ヒンドゥー教のシヴァ、仏陀の降魔、輪廻転生、ハロウィン、盆踊り、変面、能、神楽。全ての芸能や伝統へのリスペクトがきちんと感じられる、祭 GALA。

さまざまな宗教をごった煮にした、いかにも日本らしい演目の数々。だがその中に、一貫しているスタンスがある。

全ては諸行無常。世の中の全ては移り変わるもので、何一つ確かなものはない。過去はもうないし、未来はまだない。

だからこそ、「今」を精一杯楽しむのだと。

 

このスタンスは、2023年の大晦日YouTubeで配信されたライブから一貫している。

最後のあいさつで、岩本さんはこんな趣旨のことを話した。

「過去はもうないし、未来はまだないから、今を精一杯楽しんで」

刹那的な快楽主義ではない。過去も未来も、結局は「結果」でしかない。その結果のために、今命を燃やしているのだと思う。

刹那の積み重なりで、生活となり、人生となり、それはやがて伝説となる。これは祭りとよく似ているのではないだろうか。

 

正月、盆踊り、ハロウィン、クリスマス。日本古来のものもそうでないものも、伝統は人々に広まり、それはやがて生活の一部となった。

「祭 GALA」も、いつかそんな「生活」になる。そんな伝統になる。そう思わずにはいられない舞台だった。

来年の春も見られますように。願わくば、より多くの人が、よりたくさんの場所で。

 

#祭GALA #GALA